昭和59年04月01日 誕生祝賀会



 初代桂松平先生の御布教、ご信心によって、九州で今日礼拝が( ? )( ? )あります。 (暫く聞きとれない)
 桂松平先生そして地元の福岡の吉木先生、久留米の石橋先生、甘木の安武先生と大徳を頂かれた先生方にして、九州以外にも比礼が輝き渡りました。とりわけ福岡の吉木先生の場合、桂先生、四神様をして福岡の吉木栄三と言う教師はある、表行にかけてはもうこの吉木栄三の右に出る者はおるまいと、言われるほどのご修行は、だから先生方でございます。久留米の初代石橋先生が御本部に御修行に、四神様の御教えを頂かれたと言う事でございますが。
 信心辛抱したがお前がとのう事なし、いたわんことなしという、久留米の御信心を伝えられたと言う事でございます。福岡の吉木先生が自分は学がなくて、福岡でなかなか書生が多くて、私共の学問がないものが参りましてもと、御心配の事とろなさいますと、吉木さん馬鹿とあほうで道は開ける、馬鹿とあほうじゃ、お道の信心の真理を超えておられ、甘木の初代安武松太郎先生、いよいよそれを一切を神様の御物としての感じ方、頂き方それに徹しられた方と思いますが。
 それこそ落ちておる木の枝木の葉一枚が神様の御物と、徹底した神様の御物の世界を、御物として一学際、それを教えの上に現わして行かれた先生であると思うのです。私共九州の固有の信心にご縁を頂くそうした又とない進化して来た、御神意をいよいよ分からしてもろうて、身にもつけさして頂こう。一生懸命に表行を致したまぁわけでございますが。とりわけ福岡の馬鹿とあほうで道を開けと言う、この御教えの偉大性と申しますかこういう大きい信心はない。
 お互いがおかげ大きなおかげが欲しいなら、大きな受け物を作らなければならない。それには、もうこの吉木先生が頂かれたという、ふぬけて馬鹿とあほうで道を開くと言う、椛目神愛会時代に講読、今お広前の信者控え室にかかっておりますねぇ。こうりを一つ馬鹿とあほうで道を開け、一つ信心辛抱さえしとれば物事整わぬ事なし。三井教会の初代が頂かれたという。凝りを積むな凝りを積ますな身を慎め。これは当時私が頂きました。御簾を奉れと、御簾を奉れ御簾。
 その御簾というのは、お道のきが心配をさし、お道のきが心配をささげたまえる。神誡の捧げたもうあの四科目、四箇条に書いております。あの時分にまぁそれを目当てとして信心を進めさして頂きましたが。先だってもう10日も15日も前だったでしょうか。御祈念中に、九州の信心が集大成をと言う事を頂きました。只今申しました様に小倉とか、福岡とか又は久留米又は甘木のこれが九州の信心、九州の信心と言うよりもお道の信心の芯を行くものだと思うのですけれども。
 それを私共は3松の信心と3松と言う、桂松平、吉木、石橋松次郎、安武松太郎という、期せずして松の文字を頂かれた大徳の先生方が、もとう時代に現れて今日の九州の信心を成されました。そう言う信心に私共は育てられて見りまして、それを本気でまぁ出来んながらも表行の上にも、または本気で馬鹿とあほうとはこんな事だろうか、またはこれだけも違うもんだろうかと、思う様なところもございましたけれども。馬鹿とあほうの信心を貫かせて頂きましたら。
 こういう偉大な信心が又とあるだろうかと言うところまでおかげを頂きました。信心辛抱さえをしとれば物事整わぬと言う事はないと仰せられます。信心辛抱もしかりでなかなか出来ないところを、もう神様に縋って辛抱さして頂いておる内に、おかげで今日の私が辛抱すると言う事が無くなっておるのです。信心辛抱の力、信心辛抱の徳とは、もう辛抱が無くなるほどしのものである事を今日頂いております。
 甘木の初代一切を神様の御物としての頂き方から、どう言う風に一切の事柄がその氏子一人一人に対する全ての事柄を、神様のおはからいによる、又は御神愛による現れとして御の字を着けて頂く在り方、一切の御事柄として頂く信心を合楽では、段々合楽理念がつまびらかにされて来るに従って、それを思わせて頂きます。ははぁ集大成とはそう言う様な事であろうかと、そう言う信心をお互いが身に付けさせて頂く。
 私が去年もう一年半前の病院に参ります時に、神様にお届けをさして頂きましたら、あの時にちょうど時を同じゅうして、一切神愛論と言う御本が出ました。で理屈の上では一切神愛論という言葉も、もう充分に分ったように思うが、これからは実際ならお前が今からに病気に苦しみと言うものを通して、果たしてこの病気の普通では難儀と言い苦しみと言うものを、神愛として受けられるかと、言う様な神愛の決定版と言う事を頂いて病院に参りました。なるほど出来んきつい事でした。
 もうお医者さんももう命が難しい。かもわからんと言う程しのところまで参りましたけれども。神様は吾が苦しめば氏子が助かると言う事を頂いた。苦しみましたが不思議です。心の中から涌いてくる元気な心、私が苦労するとか修行する、苦しい私が苦しいと言う事が人の助かる事につながるなら、もちっと苦しんでも良いと言う様な心が涌いて参りました。おかげで誠に有り難い修行として、まぁ受けさして頂くました。おかげで合楽の方では増々御比礼を頂いて参りました。
 第一おかげな事はこの神様が士農工商と言うて下さるように、なら息子たちが力を合わせ心を合わせて、一段と信心に身を入れて私がいなくても、後の御用が出来ます様なおかげを頂いたと言う事は、まぁ本当に神愛の第一であった。神様の願いがこう言うところにもあった。御信者の皆さんが先生ばかりにゃ縋っておられんと言った様な気持ちからでしょうか。一段と信心に目土を土壌を掛けられるような、様子を私は聞かせてもらい見せてもらって、これも神愛の現れである。
 数えるならもう数限りのないほど、おかげの中にこんにちを迎えせて頂く、先だってから廿日あまり病院に入院させて頂いておりました時の、ちょうど半ばごろもう本当に今日はもう難しいのじゃないだろうか思う程にきつい事がございまして、もう身体下半身は全然知覚がなく、第一目が段々見えなくなって、こりゃ子供達を呼んで早くどうか一言でも言うときたいと言う様な気がしました。それを神様はいらんと仰る。それでそれからみな家族で家内だけが来なくても。
 なんだから看護婦だけを呼んで下さいと言うて、看護婦を呼んでそれから私は間もなくまぁ眠ってしまい。二時間も三時間も休みましたでしょうか。そしたら躰がすっきりしてるんです。目も見える様になったんです。はぁ有り難いだけではないこれは名状しがたいな事ですけども。あのう人間が向き変るとでも言うのでしょうか、こう脱皮と言うでしょうかなんかそんな感じでした。そして不思議な不思議な事が起こって参りました。と言うのは私の心の中に今まで有り難い、勿体無いとという内容のほどしのが。
 そうではないのです。異質のものです。普通でまぁ申しますならあのう、子供達が明日は遠足とか大運動会だとかと言う時、どうも眠られない様に嬉しい心が起こって来る。あの嬉しさです。あのどっからとも湧くか分らんほどしに、その嬉しさが沸き上がって来るんです。それが一日続いて二日続いて、三日、四日、五日と続いて、これが何時まで続くのか分からない。それが今日まで続いておる。嬉しい事がある時にはそれは誰だって嬉しいと思いますのが。
 それが出ない反対の折とくだいつもはこっから湧いてくる嬉しさです。そして私が思わせて頂いたいわゆる私共の信心の御簾をちょっとでも申しましょうか。生神金光大神の世界、和賀心の世界とはこう言うもんでわからない。かと今分からして頂いております。不思議な不思議なこう言う事があるだろうかと、金光大神の世界とは言うておったけれども、ねっとら有り難い勿体無きの世界であると言う風には、まぁ思うておりましたけれども。ここよも心の世界があるだろうかと。
 金光大神の世界、生神金光大神の世界はとにかくいつもが、滾々と湧き出ずる泉の様に嬉しさがこみあげて来る、世界を言うのだなと言う風に分って参りました。言うならば神様は言うて下さる信心の集大成の現れ一生というのは。これでは開闢の御信心はどこまでも一生が伴うわけではならない。そのためにお互いが実験実験、その実験に力を入れていよいよ御理念の明日、ご理念の実験実証をお互いさして頂いて、本当に自分の心の中にこう言う有り難い世界があるだろうかと言う、有り難い世界が開けてくると。
 またこういう有り難い事があるだろうかという、実証の世界に繋がって行くのでなからなければなりません。先だって一週間も前だったでしょうか、信徒会長が私の部屋に参りまして、今度先生の古希の祝いを期して食事をしたいと言うのです。何を出さして頂いたら、ちょうど私はその時にね。私の部屋からちょうど庭の先に、らっしゅという梅が満開になっとるところでした。そしてあのう梅があげな所にある事が分からなかったけれども、あつこに梅の木があったたい。
 あぁ梅の木の向こうにもういっちょ桜と柳を植えると、私のまぁいうなら信心理想である「梅の香りを桜にもたせしだれ柳に咲かせたい」。とてもそう言う事が出来るはずはない、出来る事はない事を唄たのが今の詩です。出来ない。不可能です。その不可能を私は可能とするのが、お道の信心だと思います。ためには一つお互いが梅の信心を先ず身に着けよう。梅の信心と言うのはそれこそ寒中にやっと忍びに忍んで、しかもそれにふくよかな香りを漂わせながら、咲く花だと言う事でございます。
 いわゆる久留米の石橋先生の信心辛抱であります。梅の花の信心それを桜にもたせ、桜と言うのはいよいよ美しさと言う事と同時に、いさぎ良さ。そう言う私は信心にはどうしてもそうした信心度胸がいります。いよいよの時には信心度胸で、やってのけなきゃならん様な時がございます。信心度胸を身に付けて、それこそ無条件と言われる、天の心ねいさぎ良さと言う桜の信心。華麗さ美しさをきなおしとありません。
 そうした合楽のおかげの中にはそうしたまぁ華やかな、桜の花的なおかげがあると言うのは、その根本に桜の花的な信心がなされて来たからだと私は思います。合楽で言われるいわゆる馬鹿とあほうというのは、私は素直だと言う事。柳は風にそむかない。いいわゆる風まかせのいうなら神様まかせ、神様任せは親先生任せと言った様に、その素直な心を、いよいよ本当なものにして参りまして。
 始めて私はね「梅の香りを桜にもたせしだれ柳に咲かせる」。普通では不可能であると言われる可能になるほどしの、おかげを頂く事が出来るのでございます。言うならば合楽の信心のまぁ理想、理想郷じゃになるですか。それを又銘々の身の上にもおかげを、これは合楽では足ろうたおかげと言う事を言う、これを頂いたけどこれが頂けてないと言った様なものじゃなくて。
 そういう足ろうたおかげをおかげとして、おかげを頂いて行きたい。神様の願いにこたえる。只今申しました九州の今日の合楽の信心の基礎土台とも思われる、先輩に先覚の先生方の御信心を基礎にして。只今申しました様な合楽の信心をお互い身に着けさせて頂いて、集大成と言われる信心と、梅と桜と柳の木影。たろうたおかげを頂いて心には絶えず湧き出る、信心の喜びと同時に今私が体験しておる、ごれを金光大神の世界、生神金光大神の世界と申しておりますが。
 そう言う世界をお互いに見直してもろうて、今後の信心にいよいよ拍車を掛けて頂きたい、古希の祝いと言うのはくらいまでと言う意味だそうですが、私は今私の心の中に開きつつある信心こそ、かって誰でも体験し得なかったであろう、不思議な金光大神の世界、和賀心の世界をかい間見ながら信心を進めて参り、生涯ここの所を極めていくとを精進させて頂きたい。古希のお祝いを皆さんにこの様に盛大にして頂いて、それを機会に古来まれなる信心を樹立して行きたいと願うとります。皆さんよろしゅうお願い致します。
   有り難うございました。